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ゼミ読書課題 中川千裕

 

201104

 


風が強く吹いている 感想

 

 一度読み始めたら、読むのをやめることが出来ない、読んでいない時間が惜しい、そんなことを思わせるようなスピード感に溢れた本だった。特に走る描写は、彼らの呼吸音が聞こえ、あたかも自分も一緒に走っているのではないかと錯覚するほど躍動的だった。箱根駅伝が結成1年足らずの素人集団に走れるものではないのではと思ったが、それでも彼らの走り、灰二の駅伝にかける思いを想像するうちに、彼らのことを手放しで応援したくなった。

登場人物も魅力的だった。性格も生い立ちも全く違う10人だが、互いが互いに影響し合い、箱根駅伝という一つの目標に向かって走り続けていく描写が非常に丁寧に書かれていた。そしてあらゆる場面で10人なりの強さが散りばめられていたように感じる。例えばジョータは、走ることを通して2人だけの世界ではなく新たな世界を見つけた双子の弟ジョージに対して、精一杯のはなむけの言葉を贈っている。もちろんそこに寂しさや虚無感も並立しているだろうが、弟と自分との違いを素直に認め、応援し続けようと決めた姿勢に強さを感じた。神童は風邪で苦しいはずなのに決して襷をつなぐことをやめようとはしなかった。レース結果だけをみれば神童は他校の選手に抜かれ、寛政大は6区から厳しいレースにならざるを得なかった。しかし彼は自分自身に勝ち、走だけではなく、寛政大のメンバーに走ることはどういうことなのかを体現してくれた。そして走。彼はタイムばかりを気にする周りの環境が嫌で仕方がなかった、と言っていたが実は自分が一番タイムにこだわり続けている、という矛盾状態だった。しかし幼い時から競争の世界で生き続けた走にとって、その考えが走ることの全てではないと理解するのは容易なことではなかったと思う。いくら一緒に練習していようと、いざ走る時にはランナーは孤独なことに変わりないし、結局は速く走ることが一番である、そう考えて当たり前だと思う。走の速さに妬むチームメイトなどにかまっている暇があったら少しでも走り続けたいと、いつの間にか「走とトラック」という二者の孤立した世界が出来ていたのではないだろうか。しかし灰二を始め、竹青荘の面々と走り続けていくうちに強さとは何かを知ろうとしたが、私は走がそう考えた時点で、もう彼は十分強いと思った。未知の世界を知ろうとすることは勇気がいることだし、もしかしたら今までの自分の人生観が否定されてしまうかもしれない。それでも走は強さとは何かを青竹荘のメンバーや、榊、藤岡から学んだ。箱根駅伝での走の走りはまさに圧巻であり、区間新記録更新という駅伝ランナーにとってこの上ない名誉な結果を残すことができた。しかし走はすぐに仲間が待つゴール地点に向かおうとする。この行動が走の成長、そして彼が得た強さをそのまま表していると思った。

この本を読む前、裏表紙に書いてあった「長距離を走ること(=生きること)」と言う言葉が妙に気になっていた。なぜ走ることと生きることがつながるのか私には理解できなかったが、この本を読んだ後にはなぜ裏表紙でそう書いたのか少し分かった気がする。竹青荘のメンバーは走ることを通して自分自身と向き合っていた。当初は目標、そして予選会後は一つのゴールのはずであった箱根駅伝を走っている最中も我を失うことなくしっかりと自分と向き合い、いつの間にか彼らにとって駅伝はゴールではなくなっていたと思う。駅伝が終わっても、今日の思いを糧にこれからも各々の目標に向かって生きていこう、というエネルギーに満ち溢れていた。

最後に、今まで駅伝はほとんど見たことはなかったが来年の駅伝が楽しみだと思った。

 

 


罪と罰 感想

 

 この本を読んで、人間はなんと弱い存在なのかと思った。

主人公の青年は、高利貸しの老婆を殺す、という罪を犯す。しかしまだ殺人を犯す前、彼は老婆を殺すという罪は善であり、自分のおかげで多くの民衆を助けることができるという自信に満ち溢れている。私は彼が殺人を犯す前の描写を読んでいて彼のことが怖くなった。老婆が多くの民衆から嫌われていることは事実だろうが、だからといってその悪を社会から完全に排除することが善になり得るのだろうか。その仮説が正しいのならば、法が存在する意味が無くなり、権力の誇示が許されてしまう。そうなれば無法地帯となり、社会、国家は成り立たなくなるのではないか。そして老婆を殺す描写は非常に生々しくて読んでいて気持ちが悪くなった。そして何の罪も無い、ただ殺人現場にたまたま居合わせてしまった老婆の妹も彼は同じように殺してしまう。この、予定外の殺人が彼を狂わせてしまった。殺人を犯す前彼は、なぜ完全犯罪は成し得られないのか、なぜ犯人は意志と理性を喪失してしまうのかと考え、自分はそんな風にはならないと思っていた。なぜなら彼の行動は善であり、ただの普通の犯罪者とは違うからである。しかし彼は妹を殺した瞬間、自分も普通の犯罪者に成り下がってしまったと気づいてしまった。老婆を殺すことは他者の平穏のためという理由がつけられるかもしれないが、妹を殺すことは自己を守り抜くため、自分のエゴでしかなかったからだ。結局完全犯罪など存在しないし、意志も理性も罪の前では消え去ってしまうのだ。あれほど計画をたてて実行に移したはずなのに、計画は所詮妄想に過ぎず、次々に粗が見つかっていく。彼は殺人を犯す前、自分が殺人を成功させたあと、今までとなんら変わりない日常生活を送ることができると考えたのかもしれないが、実際彼を待っていたのは予想とはまったく違うものであっただろう。絶望や後悔、懺悔、全て他人に見透かされているような気になり、尋常ではないほど身の回りが気になり、自分が社会から排除された気になっている。それが彼が犯した罪の罰なのか。異常な精神状態のなかで幾度と自首しよう、自分がおこなった行動が罪だと認めようとする一方、彼は「生」に対して異常なまで執着し、生き続けようと固く決心をしている。その狭間に揺れる彼の心情がどこか私には分かるような気がして、今度は私自身に怖くなった。

しかしマルメラードフが瀕死になったとき彼は必死に助けようとするが、私はその文章を読んでいて何か納得できないものを感じた。彼は必死にマルメラードフを助けようとするが、同時に必死に自分をアピールしているようにも感じられたのだ。まるで自分が今にも死んでいきそうな男性を助け出し、その場に居合わせた人や家族から賞賛されたい、感謝されたいとでも思っているのではないか、と思ってしまった。その瞬間彼が不自然なほど生き生きしていることに恐怖を感じたのかもしれない。彼は殺人を犯す前、老婆を殺すことで多くの民衆を救うことができると思っていた。しかし実際は何の罪も無い妹を殺し、民衆は老婆を殺した人物に感謝するどころか老婆と妹を殺した「犯人」を見つけだそうとしている。彼はそんな理想と現実とのギャップに苦しみながらも瀕死の男性を助け出そうとすることで、罪滅ぼしであると同時に、自分の行動を必死に正当化しようとしているのかと思った。

最後に、私はこの本をまだ最後まで読んでいないが、彼には自首してほしいと切に願う。

 

 


 

ガンディー 獄中からの手紙 感想

 

 ガンディーについて今まで、非暴力や塩の行進という言葉しか知らず、彼の思想についてはほとんど理解していなかった。そのため、非暴力はただ単に対立する者に対して、暴力という手段を使ってはいけないという思想だと思っていた。しかし実際はそのような単純な意味ではないということが分かった。

暴力を振るわれたから暴力で返した、という状況を考えてみたい。そもそも暴力を振るうことはよいことではない。これは周知の事実だろう。暴力を振るわれることで相手も怒り、その怒りに任せて暴力を振るい返すというのも、あまり関心はしないがよくある話である。自分を守るために暴力を振るった、といえば正当な理由にも聞こえる。ハンムラビ法典の「目には目を」という思想に一致するだろう。しかし暴力を振るわれた側は、結局は暴力を振るった側と同じ、またはそれ以上の罪を犯してしまっているのではないだろうかと彼は考えているのではないか。感情の赴くままに行動を起こすことで、相手の怒りをさらに増発させかねない。他人に罪をすべて擦り付け自分を正当化しようとしているに過ぎない。そうではなく暴力を振るわれてもその人物を許し、寛容の心を持ち相手を諭すことが大事であると彼は説いているのだが、この考えを実行するのは容易いことではないと思う。そもそも暴力をふるった相手が、何もしてこないことをいいことに暴力を振るい続ける可能性もある。それでも暴力という手段に頼らないようにするには、相手を信頼するほかないのではないか。しかし他人を、ましてや暴力を振るった相手を信頼することができるだろうか。これが彼が説く「愛」なのだろうか。そういった疑問は残るが、それでも彼が徹底的に非暴力の姿勢を貫くことでインドの歴史が変わったことは間違いないだろう。非暴力は最大の力である、と解説に書かれていたがまさにその通りだと思う。暴力やそれを助長する機械は所詮人間の製造するものに過ぎず、人間の力を誇示することはできても人間自身を超えることはできないのではないか。

また彼の教えは曖昧なものではないし、非常に敬虔でそして厳しい。ガンディー自身は自身の教えを守り生活を行ってきたが、果たして信者が同じように生活を送り続けることができるのだろうか。人間の最大欲求である性欲を断ち、必要最低限の質素な食事をし続けることを彼は説いているが、本来自然な欲求であるはずの性欲、食欲を十分に満たすことができずに人間は人間らしく生きていくことができるのだろうか。神のためにそこまで自分を犠牲にしていいものなのか、と考えてしまった。しかしこの考えは、私自身信仰している宗教がないから言うことができる身勝手な考えなのだとも思う。

ところで彼は無宗教に対して寛容であってはならないと説いているが、それはなぜなのだろうか。彼は宗教は平等である、と述べている。キリスト教やヒンドゥー教、その他の宗教が平等に存在するならば、どの宗教も信仰しない、というある種の宗教を認めてもいいのではないだろうか。

彼の考えは現代の日本の生活にはあまり馴染まないだろうし、我々日本人が真似できるものでもないと思う。しかし、彼の不盗の文章に「将来についての取り越し苦労は、多くの盗みの根っこに見られます」という一文があるのだがこれはまさしく今の我々日本人にとって肝に銘じておかなければならない教えであると思う。